2014-02-05 第186回国会 参議院 予算委員会 第2号
日本からは星島二郎、その直後に議長になられますが、星島二郎先生と社会党の加藤シヅエ先生が出ておられた。 そして、その中で、今だから想像付かないんですが、日本は講和は成ったんですが、実は、周りの国々は全部日本に対してひどい目に遭ったということで講和がなかなか個別には進まなかった。条約ができなかった時代ですね、韓国、中国、フィリピン、オーストラリア、それからミャンマー、当時のビルマですが。
日本からは星島二郎、その直後に議長になられますが、星島二郎先生と社会党の加藤シヅエ先生が出ておられた。 そして、その中で、今だから想像付かないんですが、日本は講和は成ったんですが、実は、周りの国々は全部日本に対してひどい目に遭ったということで講和がなかなか個別には進まなかった。条約ができなかった時代ですね、韓国、中国、フィリピン、オーストラリア、それからミャンマー、当時のビルマですが。
手元に、一九二五年の治安維持法の本会議において、当時の憲政会の加藤高明内閣の若槻礼次郎内務大臣に対して、星島二郎議員、そしてさらに三番手として鳩山一郎議員が代表質問を行っている。委員会質問も星島二郎議員が行っておられます。 「普通選挙を断行せんとし、貴族院改革を致さんとする現政府を支持致して居る一人であります、」星島二郎議員はこのように冒頭で述べております。
昭和二十四年の寒冷地手当について、星島二郎議員はこのように述べています。冬期間について、他の同程度の温暖地方と比較すると、寒冷積雪地方の生計費は高い。この特殊生計費の増加は一定期間のことであり、本俸に盛り込むことは困難だと。それで、寒冷積雪地給を冬期間に限って支給する妥当性を認めるものと、こういうふうに提案理由説明で言っているわけなんです。
そうしたら、そのときに、松野先生たちの先輩だった、もちろん私どもにとっても大先輩でありますけれども、後に衆議院の議長をお務めになった星島二郎先生が、その松野先生たちの法制化の動きについて、君たち、そういうことを、国旗・国歌などというものは軽々に法律をつくって定めるというべきものではない、イギリスの例にも見られるように、慣習としてあるいは慣習法の裏づけがあって国民の皆さんの中に認識をされ尊重をされる、
松野先生が当選をされまして一年生、二年生の時代ということを振り返ってみますと、恐らく、星島二郎先生たちが政界のトップにおられて、時代を背景として考えますと、あの当時そういうお言葉が出て当然であったであろうと私は思うわけでございます。
私の恩師の星島二郎先生は、さらに何倍かあるというぐらいある。ところが、今回の自自連合ぐらいで皆さんびっくりしておるぐらいですが、これからはさらにさらにいろいろ展開があると、総理はまた、いざとなったらおれが決めてやるんだ、この決意でやっていただくことをお願いして、私の質問を終わります。
そこで、これは何とかしなければならないということで、その当時の若槻内閣が震災手形二法という法律を出して、一億円を限度として日本銀行のそういう債務を面倒見ましょうということだったのですが、まあ国会では大きな騒ぎになって、橋本総理のお父様の時代の政治家で星島二郎さんとか武藤山治さんとかという議員が質問に立って、質問は今野党の皆さんがやっている質問と全く一緒です。
昭和六十三年、「夢のかけ橋」といわれた瀬戸大橋が開通し、その橋を恩師星島二郎先生の銅像が見下ろしています。先生の遺志を継いで力一杯ふるさと発展のために頑張ってきた私にとり橋の開通は感無量でありました。また空の玄関口、新岡山空港も同年開港し、今年夏より大韓航空の定期便も飛来するようになりました。
○竹本分科員 実は、私も二十年前に、星島二郎さんや片山哲先生と一緒にMRAのコーの会合に出たことがあるのです。二十年ぶりに昨年の八月、一週間以上コーに参りましていろいろいい経験をいたしました。そのとき驚いたことは、そのコーの会議に日本の外交官はだれも来ていないのですよ。 そこで、僕がいま大臣に要望を申し上げたいと思いますのは、そのコーの会議というのはまことに意味がある会議でございました。
犬養健、植原悦二郎、松岡駒吉、星島二郎、北村徳太郎、黒田寿男、末端に至って小林進というふうになってくるのでありますけれども、こういうようなそうそうたる名士が入って、そしてこれをひとつ撤廃しようという運動が始まっておる。 もう時間がありませんからなんでありまするけれども、それに対して、実に歴代の大蔵大臣が全部撤廃の方向で回答しているんだ。
高橋 辰夫君 玉沢徳一郎君 保利 耕輔君 加藤 万吉君 山花 貞夫君 春田 重昭君 中路 雅弘君 高橋 高望君 委員外の出席者 議 長 灘尾 弘吉君 副 議 長 岡田 春夫君 事 務 総 長 大久保 孟君 ――――――――――――― 本日の会議に付した案件 元議長星島二郎君逝去
終わりましたところで、議長から、故星島二郎先生に対する弔詞贈呈の報告並びに弔詞の朗読がございます。 終わりましたところで、動議によりまして、日程延期、散会ということになります。 以上でございます。
○亀岡委員長 次に、元議長星島二郎君逝去につき弔詞贈呈報告の件についてでありますが、去る三日、元議長星島二郎君が逝去されました。 ここに謹んで哀悼の意を表します。 弔詞につきましては、お手元の印刷物のとおりの特別弔詞を、理事各位の御了承を得まして、葬儀当日、議長から贈呈していただきましたので、御了承願います。
元本院議長星島二郎君は、去る三日逝去せられました。まことに哀悼痛惜の至りにたえません。 同君に対する弔詞は、先例により、議長において去る十九日贈呈いたしました。これを朗読いたします。
これを初めといたしまして、齋藤隆夫、幣原喜重郎、北村徳太郎、川崎秀二、加藤勘十、鈴木茂三郎、吉田茂、星島二郎、西尾末廣、春日正一、徳田球一等々の諸先生を初めといたしまして小澤佐重喜、倉石忠雄、こういう人たちが議会の尊厳を守り、国民の知る権利にこたえようとして全部証人台に出ていられる。
ところが、星島二郎議長が選出されるに及んで、その副議長は従来の慣例を認めずして、自由民主党から同じく副議長として椎熊三郎議員が選出をされたのであります。
それで当時星島二郎さんの御子息さんの先生をやっておったのですから、浅井さんは当時の与党の顧問ですよ。あのころは貴族院ですが、推薦ですから、参議院のほうに席があった。この浅井さんが公務員制度課長で宮澤さんたちと一緒に進めた中では、アメリカの公務員制度というものをずっと検討している。これは浅井さんはこんな大きな本を書いておられますよ。このアメリカの公務員制度を持ってきた。
しかし、そのほかにも創作舞踊で苦労している劇団、たとえば星島二郎氏が会長をしている国民オペラ協会等がありますから、それらもお調べくださって、あれは今度成功しましたのは、徳川時代のキリシタンの奥さんの——五十になりますとどうもど忘れしまして、キリシタン大名の奥方の有名な、文部省の方知っておりましょうが、そのオペラ。それから能をオペラ化したものなどは相当注目されております。
加藤常太郎君 理事 佐藤洋之助君 理事 内藤 隆君 理事 栗原 俊夫君 理事 畑 和君 理事 森本 靖君 綾部健太郎君 小渕 恵三君 大高 康君 大野 明君 亀岡 高夫君 木部 佳昭君 小泉 純也君 佐藤 孝行君 志賀健次郎君 徳安 實藏君 服部 安司君 星島 二郎君
(原健三郎君紹介)(第二八一号) 同外十七件(廣瀬正雄君紹介)(第二八二号) 同外十件(福永一臣君紹介)(第二八三号) 同外七件(福永健司君紹介)(第二八四号) 同外九件(藤井勝志君紹介)(第二八五号) 同外十件(藤尾正行君紹介)(第二八六号) 同外三件(船田中君紹介)(第二八七号) 同外一件(古川丈吉君紹介)(第二八八号) 同外十七件(坊秀男君紹介)(第二八九号) 同外九件(星島二郎君紹介
大正になりましてからこれを三万円にふやしたというような時代、そこへ関東の大震災というものがありまして、そうして現に議員の中では星島二郎さん、あの人が国会においてこの問題をかなり取り上げまして、そうしてその結果、東大の地震研究所というものができたわけです。
あるいはある新聞の報道によりますと、自民党星島二郎氏が大正年間の原内閣時代の小選挙区制をみずから体験しておりまして、小選挙区制はかえって金がかかる、また競争が激しくなって、はなはだ遺憾とすべきである。金がかかるということからいえば、小選挙区制のほうが金がかかる。これが一般の事実上の日本の選挙の姿でございます。そういった事態を総理はどう考えられるか。
昭和四十一年十月十二日(水曜日) 午前十一時三分開議 出席委員 委員長 砂原 格君 理事 加藤常太郎君 理事 佐藤洋之助君 理事 内藤 隆君 理事 栗原 俊夫君 理事 畑 和君 理事 森本 靖君 大高 康君 小泉 靖也君 志賀健次郎君 徳安 實藏君 服部 安司君 星島 二郎君 安宅 常彦君